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まずは・・・

 えっと 先般のお江戸モノが 少し好評のよう(?)でしたので

カテゴリーに「街道をゆく」を追加し、これから気が向けば

ちょこちょこ書いていこうかな、と考えております。(自分の勉強にもなるし)

「街道をゆく」は司馬遼太郎の本の題名のぱくりです。(ごめんなさい)

「みんみの街道をゆく」コーナーということです。(えへへ)

今日は、江戸ではなく 加賀のことを。

加賀は「百姓のもちたる国」(こんな言い方やったかなぁ・・・汗)

と 加賀を紹介するサブタイトルみたいに使われたり 農産物の広告に

使われていたような気がしますが、その由来らしき見解を書きますね。
(あくまでも自分の読んできたものを 自分なりに解釈してますので
 違っていることは多々あると思いますが。。。汗 許して)

加賀平野は13、4世紀に 開拓されました。

当時は侍も農民もなく 開拓農民=武士 でした。

そこへ 鎌倉幕府から 任命されたお役人がくるんですね。(富樫氏)

でも、加賀の人にしたら 一生懸命 開拓した自分達の土地なのに

こんなお役人に税金(お米)を納めたくない!!

で、そんな時に現れたのが、蓮如さん(浄土真宗)

浄土真宗の普及のため、有力な開拓農民(武士)の次男坊を

真宗にさしだしなさい、私財でお寺を作りなさい

と言います。浄土真宗はお嫁さんももらえるわけですから

一族郎党全員が浄土真宗の門徒になるわけです。

と、なってくると農民は富樫氏が嫌いなものですからいっそ

お寺を作ってそこにお米を納めようとなるわけです。。

でもって、富樫氏を追っ払ってしまうんです。

で、その後100年の間 織田信長がでてくるまで

加賀は 真宗のお坊さんと開拓農民である地侍との合議制による

政治がつづきます。

そこから「百姓のもちたる国」という名前がつくのかな、と。。。

織田信長がでてきた時の話はまた今度。
(金沢の血の川の由来もここに関わってきます。)




ちなみに蓮如さんは布教をお寺さんでするよりも「講」を中心にしておりました。

「講」はあっちの村 こっちの村と連合して作られてて信仰を語り合う場所でした。

ここで みんな思想的な話を語り合うわけです。
(西田幾多郎とか暁烏敏とかを生む土壌の形成ですな)

日本人がはじめて このときに

横のつながり社会をもったんです。

でも 江戸になると がちがちのタテ社会ですから この横のつながりをいやがるんです。

島津藩なんかは、キリシタン以上に浄土真宗をおそれていたようです。

と、まぁ またまとまりなく 書きました。すんません。

あくまでもみんみの私見ですんで、苦情は受け付けません(苦笑)

これからも 時代をいったりきたりしながら 書いていきたいです。


それでは、おやすみなさい。(明日もお休みうれしいなぁぁ)

by minmijb | 2007-02-11 03:29 | 街道をゆく